未明の幻想世界

私の脳内で展開される世界を小説にして投稿します!彼らの運命を見届けてくれる人が一人でも多く現れることを祈って……

0、プロローグ〈1〉

 

風が吹いた。
少女の髪が風にたなびいて大きく揺れる。
膝まで届く長い髪は、血のような真紅に染まっていた。
もう一度、強い風が少女に吹きつける。
少女は、あまりの風の強さに目を細めた。
「申し訳ございませんっ」
1人の召使いが慌てて駆け寄り、扉を閉める。風の抵抗が消えた少女の髪は、重力に従って地面へと降りた。風音の消えた室内は、まるで誰もいないかのように、静まり返っている。

ここは、塔の上。誰もが一度は目にしていながら、誰もその存在に気づかない、少女の小さな「世界」。

少女は、静かになった部屋を見渡した。数々の彫刻と最高品質の家具で飾られた部屋は、どこかよそよそしい。少女がついたため息は、無駄に広い部屋へ吸い込まれていった。少女はもう一度窓へ向くと、側にあった椅子に腰をかけて、何をするでもなくほおづえをつく。

コンコン

何分そうしていただろうか。静寂に包まれた部屋にドアをノックする音が響いて、少女はゆっくりと顔をドアに向けた。ずっと動かさずにいた手が痺れているが、久しぶりの来客に胸が高まる少女には、あまり気にならなかった。

『ブラフィルド先生がお見えです』
部屋の番をしていた兵士が、扉越しに呼びかける。
「先生がお見えになっているのですか?」
先生が来ている。そうだ、今日は先生との約束の日だった。こんな大事なことを忘れるなんて、自分は相当物思いに耽っていたらしい。少女は弾むような声で兵士に答えると、少し小走りにドアへと向かった。
「兵士さん、いつもありがとう。先生をお通ししてあげて」
この部屋の人間は、必要最低限の発言しか認められておらず、目配せなども禁止されている。よって少女とこの兵士は、お互いにどんな人間なのかを知らない。だが、上目遣いで見る少女に、兵士がほんの少しだけ微笑んでくれたのは少し嬉しかった。今ので彼が少しでも幸せを感じられたならいいな。少女はそんなことを思った。

兵士がドアを開けると、そこには長い髪を後ろで束ねた二十代ぐらいの若い男が立っていた。
「先生、ごきげんよう。わざわざこのようなところに脚を運んでくださり、まことにありがとうございます」
少女はドレスの裾をつまんで、恭しく礼をする。先生と呼ばれた男は軽く礼を返すと、部屋の中に入って来た。少女も男について、部屋の中央にある机に向かう。少女の部屋に来たブラフィルドという男は、少女の家庭教師である。一日のほとんどを部屋で過ごし、他人と触れる機会がない少女にとって、ブラフィルドは社交の場での振る舞いや、国語であるシャスパ語を教えてくれる唯一無ニの先生だった。そう、表向きは。今日ブラフィルドがここに来たのは、家庭教師をするためではない。

「アリアレカエラ様、出しておいた宿題は終わりましたか?」
ブラフィルドはそう声をかけた。少女は「もちろんです」と、お茶の準備を一旦止めて返事をする。ブラフィルドはそれを聞くと、持ってきた鞄を開けて、何かの準備を始めた。その姿はいつもの教師と生徒といった感じで、全く違和感がない。
「先生、準備はできましたか?」
ブラフィルドの手が止まるのを見計らって、少女は入れたてのお茶を机に置くと、そう尋ねた。ブラフィルドは、机に置かれたお茶を一口飲むと、少女の方を向いて微笑んだ。

「もう大丈夫ですよ。アリア」

少女は顔を綻ばせる。しかしその表情は先ほどのようなどこか人を寂しくさせる可憐な微笑みではなく、寒気を感じるくらいに無邪気な笑顔だった。
「そっか、さすが先生。仕事が早いね」
少女、アリアは先ほどまででは考えられないような軽快な動きで部屋中を飛び回る。いつものお淑やかで優雅な少女はそこにはいない。アリアの姿は市井の少年少女となんの変わりもなかった。そんな明らかに普段とは違った様子のアリアを見ても、周りの召使いたちは何の反応も示さない。彼女たちには幻術によってアリアとブラフィルドが熱心に勉強をしている姿がみえているはずだ。
「うん、先生の魔法は最高だ。こんなに至近距離でも、相手に一切勘付かれないほど高度な幻術を展開させるなんて」
そう言ってアリアは召使いの前で手を振るが、やはり気づかれることはない。
「あまり浮かれている暇はないですよ、アリア。今回貴方を教えるためにもらった時間はあまり多くありません。遅くても日没までには帰らなくては、わたしたちがいなくなっていたということが、あの者にばれてしまいます」
「あ、そうだっけ?ごめん、すっかり忘れてた!」
アリアはそういって頭をぽこんと叩き、手を上に挙げた。すると、彼女の手から光が溢れ身体中を包み込む。光が消えると、そこにはミニスカートとマントを身にまとった、どこにでもいる金髪の女の子がいた。
「だいぶ幻術が上手くなりましたね」
ブラフィルドが感心した声で言った。アリアはそれを聞いてにっこり笑うと、今度は手を一振りする。すると窓際にあった花瓶が、精巧なつくりのナイフに変わった。ウインクをするアリアに、ブラフィルドは呆れ顔で返す。アリアはそれを見てより嬉しそうに笑った。そして身を翻し窓の近くに行き、勢いよく開け放つ。風が部屋になだれ込み、アリアの金髪を乱した。そのまま窓から身を乗り出し、下を覗く。真下には広大な森。少しいったところには街並みが見える。外には世界が広がっているんだ。アリアは初めてそう実感した。同時に限界の見えない世界に足がすくみそうになる。
「ついに、この時が来たんだね」
アリアは風に吹かれながら、そう呟いた。
「はい、貴方はよくここまで耐えました。しかし、ここから先、もっと辛いことがあるでしょう。それでも、貴方は前に進めますか?」
ブラフィルドが静かにアリアに問う。

確かに自分が進もうとしているのは、希望溢れる未来ではなく、永遠に終わらない孤独と絶望だろう。だが、それがなんだというのか。自分は使命を果たすためだけに生きてきた。もしなにも持たない自分が唯一持っている使命さえ無くしてしまったら、きっと自分に生きる意味はなくなってしまう。それは怖いことだし、それだけは絶対に嫌だ。だから、一寸先が闇であろうと、自分は進まなければいけない。使命を果たして死ぬのなら、それは本望だ。
『使命を果たせ』
唯一記憶に残っている父の言葉は、ただこれだけだった。
言われなくても、やってやる。
覚悟は決まった。もう迷いはない。

「うん、行こうか」
そう言って、アリアは体を宙に投げる。一瞬の浮遊感の後に、急速な落下感。普段味わえない感覚に興奮と少しの恐怖を覚えながら、アリアは初めての世界へと落ちていった。